ひな祭り
三月三日のひな祭りになると必ず思い出します。
私は銀行に勤めて3年で初めて転勤になった。地方銀行だから転勤と言っても駅前支店から自動車で30分の距離にある山手支店だった。私の担当エリアは支店の坂を登った山手団地でした。銀行員の御用聞きは、定期預金者や資金の借用者の取引先が対象でした。国債の販売、定期預金の獲得、クレジットカードの契約キャンペーンなどで一番頼りになる顧客でした。
取引先の朝倉さんは駅前で小料理屋をして、住んでいるのが山手団地であることを初めて知った。お店は忙しいので、銀行に行く間もないため、私は顧客回りで自宅に行き、入金や振込依頼を頼まれることがよくあった。時には急いで銀行の前で車を駐車して、これお願いといって振込票をはさんだ通帳をポイと行員に渡すこともあった。支店では朝倉さんを知らない人はいなかった。
私は三月のはじめ朝倉さん宅をうかがった。玄関から
「朝倉さん、山手支店の中村です」・・・・
「朝倉さん、いらっしゃいますか」・・・・
「奥さん、銀行の人が来ています」とお手伝いさんの声が耳にはいった。
「中村さんちょっといいですか、上がってください」と朝倉さんの透き通った声が聞こえた。
「中村です。上がってよろしいですか」
「どうぞ、どうぞ、上がってください」
私は、玄関に女性物の靴や下駄がきれいに並んでいるので、脱いだ自分の靴を同じように並び揃えた。奥に進むと朝倉さんとお手伝いさんで、真っ赤な敷布の上に五段飾のひな壇に、お雛さまを飾りつけていた。平安風の雛飾りは鮮やかであるものの、清楚な和室にはぴったりであった。
「もう少しで雛飾りができあがるので、待ってくれますか」
女性の一軒家に上がるのは初めてで、自然な態度をとるのに緊張をした。
「いいですよ、お雛さまきれいですね」と雛飾りが終わるのを待っていた。
「できました、できました。おばちゃん休みしよう。お茶を出してくれます」といって二階に行き通帳や依頼票持ってきた。
私は二人がじっとひな壇を見つめ、お雛さまはきれい、お雛さまの位置がおかしいなどと話をしているのをいちべつしながら、ポータブルの端末で入金の手続きをした。
「中村さん、もうすぐ雛祭りね、雛飾りにびっくりしたでしょう」といい、私はええと答えるだけで、言葉は出なかった。三人でひな壇をみながら静かなにお茶をいただいた。
車で次のお客に向かった。雛飾りは自分の子供のためなのか、誰かの子供のためなのか、果ては自分のためなのかと運転しながら詮索した。しかし人はいろいろな思いがあり、何もなかったように、そっとすることに決めた。
(2017年3月8日掲載)